毎回老子の言葉をひとつずつご紹介しています。
コラムの149回目では、「無為と作為」について検討してきました。 学問を志す人の頭でっかちへの警鐘を老子は鳴らしていたのですね。
今回は、「指導者は無心でなければならぬ」です。
「指導者は無心でなければならぬ」とは何か
今回は老子の言葉「指導者は無心でなければならぬ」の意味をご一緒に考えましょう。
老子の原文に近い表現は、「聖人は常心なし」です。
これは指導者つまり聖人が無心であれば、人民大衆も無心に戻るということです。
聖人の無心とは何か
聖人が無心であるということは、人民大衆、つまり一般大衆が善とすることをそのまま受け容れるということです。
自然に任せるとは自己主張せず、一般民衆が善としていることを、聖人も善とするということです。
聖人は「道」を体得した人という意味ですから、常に無為自然、そして自己主張をしないのです。
そうした治め方が理想だというのです。
ビジネスにおける経営者の無心とは何か
現代に生きている私たちも、常に無心でいることが出来るでしょうか。
私たちのレジリエンス(折れない心)を考えるとき、そこには最高の解決策があると思われます。
私たちはついつい自分を優秀、あるいは正しいと考え、周囲の人の考えを否定したくなります。
そこには落とし穴があるのです。
無為自然にはならず、我を通そうと頑張ってしまうことによって、無為自然からかけ離れていくのです。
経営者ともなると、もっと難しくなります。
社内では部下は安易に上司には逆らえません。
従って、従業員の真意をつかみかねます。
そして最悪の場合は、従業員が会社に見切りをつけて離れます。
これは同様に、お客様との関係でも起こります。
お客様の求めるものから私たちは段々かけ離れていき、ムダなもの、本当は不要なものをお客様が欲しがるように仕向けます。
例えばファッションの世界では、インターカラー(国際流行色委員会)という団体が2年後の流行色を決め、それによって心理的陳腐化(まだ使えるのに、買い換えたいと思わせること)を狙っています。
業界は潤うのですが、SDGsの観点からは大いにマイナスです。
将来、こうしたことも見直さなければならない時が来るでしょう。
また、個別企業では広告をうったり、キャンペーンをしたり、といった具合にお客様を刺激して本当は必要がなくとも、どうしても買いたくなる、あるいは買わざるを得ないように仕向けます。
それが戦略であり、マーケティングであると錯覚しているのは、実は経営者です。
長期的にはお客様はブランドや企業への共感を失い、何も言わずにそのブランド、企業から離れていきます。
そうしたことを自覚し、お客様の求めるもの、そしてお客様が本当に必要な「もの」や「こと」とは何かだけを考え続けることこそが、唯一の企業生き残りの道なのです。
本コラムが私たちの日々の悩みを和らげ、深く自省するきっかけになれば幸いです。
「老子」に関しては、徳間書店「中国の思想」第6巻「老子・列子」を参考にさせていただきました。
レジリエンスの高い人の特徴を詳しく知りたい方は、拙著:「レジリエンス(折れない心)の具体的な高め方 個人・チーム・組織」(セルバ出版)などをご覧いただければ幸いです。
(筆者:深山 敏郎)
株式会社ミヤマコンサルティンググループ
toshiro@miyamacg.com