コラムの122回目では、老子の言葉「うつろだから満ちる」を検討してきました。 うつろであるということが、実は完全になる条件、満たされる条件です。
今回は老子の言葉「あるがままに」をご紹介します。
「あるがままに」とは
老子の言う「あるがままに」とは、つねに自然であるということで、「道」は道として理解し、「徳」は徳として認めることです。
また、「失」は失としてあるがままに受け入れることです。
天地も自然の産物であり、風雨もあれば干ばつもあります。
それを自然の産物として受け入れることが、「あるがままに」という意味です。
「道」を体得した人はこうした自然を自然として受け入れます。
「道」でさえ絶対ではない
老子は「道」でさえ絶対化しません。
絶対化するということは、それに縛られ、とらわれることです。
従って「道」ですら絶対化しません。
私たちは何か良いアイディア、新しい方法などを発見し、あるいは体得すると、それがあたかも絶対であるかのように誤解をします。
老子はそうした私たちの姿勢に批判的です。
そうした批判精神もそのまま受け入れる、そうした姿勢を持った時にこそ「道」を体得した聖人になれるということでしょう。
そう考えてみると、私たちはいつになったら「道」を体得し、「徳」を身につけた聖人になれるのでしょうか。
「道」のみぞ知るというのが本当のところではないでしょうか。
おそらくそうした姿勢で生活していれば、いつか気づかぬうちに「道」を受け入れることができることができるのかもしれません。
肩から力を抜き、その程度に考えながら生きていくのも人生ではないでしょうか。
本コラムが私たちの日々の悩みを和らげ、深く自省するきっかけになれば幸いです。
「老子」に関しては、徳間書店「中国の思想」第6巻 「老子・列子」を参考にさせていただきました。
レジリエンスの高い人の特徴を詳しく知りたい方は、拙著:「レジリエンス(折れない心)の具体的な高め方 個人・チーム・組織」(セルバ出版)などをご覧いただければ幸いです。
(筆者:深山 敏郎)
株式会社ミヤマコンサルティンググループ
toshiro@miyamacg.com