コラムの119回目では、老子の言葉「作為を捨てよ」を検討してきました。 才能を重視する、道徳を強制することなどは、作為であり望ましくないと老子は言います。
マーケティングのニーズとウォンツなどについても、触れてきました。
今回は老子の言葉「愚者の心」をご紹介します。
「愚者の心」とは
老子の言う「愚者の心」は、老子そのものの心であり、何も学んでおらず、また、何の分別も得ていない、いわば原始的な心といったものです。
老子は、知識を万能視するから悩みがおこり、礼儀を意識しすぎると堅苦しくなると言います。
善悪の境目もあいまいなもので、決め事にすぎないと言います。
悩みは、なまじ知識を求め、礼儀の正しさを求め、そして善悪の分別を求めすぎるからという意味に取ることができそうです。
真の賢者と、愚者とは同一ではないでしょうか
古代ギリシャの哲学者で、賢人として知られているソクラテスは、自らを愚者と呼び、「無知の知」、つまり自分の無知を知ることを重んじました。
それが以降の西洋における、後に東洋においても学問の基本姿勢として続いています。
「老子」が一説によると紀元前6世紀から同5世紀に書かれた、あるいは編纂された書物であり、ソクラテスは紀元前5世紀から同4世紀の人であるということから、これらの学者あるいは賢人たちが同じ意味のことを伝えていたという事実には驚かされます。
洋の東西ということを超えて、自らの「愚かさ」あるいは「無知」を自覚するところから、主体的な人間が始まるといえましょう。
国も企業も、そして個人も知識を追い、作為に明け暮れている
現代ではどうでしょうか。誰もが他者よりも賢くなろうと学問に励み、競い合っているように思えます。
企業間では生き残りをかけて特許など知的財産の創出を競い、しのぎを削っています。
国も同様に思えます。
こうした作為には、自省・反省ということが十分に行われているでしょうか。
いくつもの戦争を引き起こし、差別をし、他者と競い、また、新自由主義経済の名のもとに極端な貧富の差を是としているようです。
個人でも多くの場合、他者に負けまいと誰もがマウントを取ろうとしています。
マウントとは、他者の上に位置し、他者を見下すポジションという意味で、序列の上に立とうとすることです。
そのように競うことによって、何が生まれてきたでしょうか。
それは勝者であり、敗者を生み出してきました。
私たちはどちらが正しい、どちらが力を持っている、そうしたことに終始して、「道」にしたがった人間性を疎かにしていませんでしょうか。
勝者はおごり高ぶり、敗者は世を恨むのが常です。
老子が伝えてくれることは、そうしたことにどれだけの「意味」があるだろうかということではないでしょうか。
本コラムが私たちの日々の悩みを和らげ、深く自省するきっかけになれば幸いです。
「老子」に関しては、徳間書店「中国の思想」第6巻 「老子・列子」を参考にさせていただきました。
レジリエンスの高い人の特徴を詳しく知りたい方は、拙著:「レジリエンス(折れない心)の具体的な高め方 個人・チーム・組織」(セルバ出版)などをご覧いただければ幸いです。
(筆者:深山 敏郎)
株式会社ミヤマコンサルティンググループ
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