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深山 敏郎

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第50回 シェイクスピアの登場人物のレジリエンス(38)シェイクスピアのレジリエンス

2022/05/31

前回までシェイクスピアの戯曲37作品について主役級の登場人物のレジリエンス分析をしてきました。今回はこの項の締めくくりとしてシェイクスピア自身のレジリエンス分析をしてみます。

私がシェイクスピア作品と本格的に出会ったのは、半世紀近く前、大学1年の時に恩師ギャヴィン・バンットック演出による「ハムレット」の兵卒フランシスコーを演じた時です。この役は冒頭で兵卒バーナードとともに登場します。
また、私たちの役割はそれに加えて日本語で注釈をすることでした。英語劇であったため日本人のお客様のために登場人物がそのような役割も果たして、理解を助けたわけです。この作品が記念すべき私のデビュー作となりました。

その頃からシェイクスピア作品を中心に興味を持ち、さまざまな作品に出演、そして多少は演出も手掛けてきました。

今回はシェイクスピア自身の人生をダイジェストでご紹介し、彼の人生において節目となる時期にどのように逆境に対処してきたのかを分析してみたいと思います。

シェイクスピアの人生

シェイクスピアは劇作家・演出家としても、演劇関係のビジネスパーソンとして大いに成功しました。
世界で最も上演されている脚本を書いた人間です。しかし彼の人生は決して平たんではなく、波乱万丈でした。

●シェイクスピアの育った環境
ウィリアム・シェイクスピア(1564-1616)は、ロンドンから十マイル程離れたストラットフォード・アポン・エイヴォンに生まれました。
美しい大自然に恵まれた田舎町で、シェイクスピアの霊感、詩的な才能はストラットフォードの自然と深い関係があると考えられています。
彼の父親ジョン・シェイクスピアは富裕な羊毛商人で、社会的な地位も高い人でした。
子供が十人いましたが、教育は母親のメアリ・アーデンの仕事でした。
読み書きだけでなく、芸術的な才能もあったらしいのです。

シェイクスピアは地元のグラマースクール(日本の中学、高等学校にあたる)に通い、短期間ながらラテン語も学んでいます。
ところがこの頃になると、父ジョン・シェイクスピアの家業にも陰りが見え始めていました。
一説には、彼の家族は隠れカトリックだったからだと言われています。
シェイクスピアは家計を助けるために、学業を断念して就職しました。
彼のはじめての職業は、弁護士の書記でした。
「ヴェニスの商人」の法廷シーンのやり取りは、その時の経験が生かされていると思われます。
この頃彼は、聖書やローマ古典、そして英国の歴史書も熱心に読み、幅広い知識と深い教養を身につけるきっかけになりました。

●結婚後、ロンドンへ単身で行き劇団へ就職
シェイクスピアは、十八歳の時に八歳上のアン・ハサウェイと結婚しました。
結婚五ヶ月で長女が生まれます。その後、双子の子供が生まれることになります。

その後、シェイクスピアは家族をストラットフォードに残して単身ロンドンへ就職にやってきました。
ロンドンでのシェイクスピアは、まず馬番から始まります。
レスター伯爵お抱えの劇団の馬番として、一座に職を得ます。
「マクベス」の劇中の深夜の門番の台詞など、この頃の体験が生きているといえましょう。
当時の劇団は役者不足だったため、シェイクスピアは役者としても活躍する機会に恵まれます。
その後、劇団の専属脚本家になります。

●シェイクスピアの危機
その後、ロンドンで疫病が流行り、劇場のような人が沢山集まるところが諸悪の根源のように扱われ、一斉に閉鎖されました。
現代の新型コロナウィルスで劇場が閉鎖されたことと符合します。
現代の演劇関係者の嘆きから当時の演劇関係者の苦しみが推察できます。
シェイクスピアにとっての収入源が閉ざされました。1592年から翌年にかけてのことでした。
この間のシェイクスピアの所属する劇団は、スポンサー探しで大変でした。

●危機後のシェイクスピアはビジネスで成功
疫病が止み、ロンドンの劇団に客が戻って来るようになると、シェイクスピアは経済的にも社会的にも大いに恵まれることになりました。
芸術家にありがちな金銭への無頓着さは、シェイクスピアにはありませんでした。
父親ジョン・シェイクスピアから受け継いだ商才が生きて来たのです。
また、若い頃、父親のビジネスに時代的逆風が吹き、学校を退学して就職せざるを得なかった経験が、堅実な金銭感覚をシェイクスピアにもたらしていたのです。
シェイクスピアは劇団の共同オーナーとなって、作品がヒットすると、その収入の一部を受け取ることになります。
もちろん彼は金銭だけのために劇作をしたわけではありませんが、彼の作品が大人気に沸くと、彼に多くの金銭をもたらしました。

●詩的なリズムの喜劇で大成功
シェイクスピアが本格的に大成功をしたのは、「間違い続き」(1592-3)などの喜劇を書いたことによると言われます。
特に技法として、“ブランク・ヴァース(blank verse:無韻詩)”という一定の弱強のリズムは持つものの、脚韻を踏まない詩によってドラマの音声的な美しさを引き出しました。

その後もさまざまな喜劇で成功を続けます。
特に、「ヴェニスの商人」のシャイロックというユダヤ人の金貸しという役柄を創作し、インパクトの強い劇にしました。
因みに、後に、悲劇の主人公としてシェイクスピアの代表作ともなる、「ハムレット」の主人公ハムレット王子なども彼の純然たる創造であり、複雑な悩みを持つ生身の人間として描かれています。

シェイクスピア作品の観客は当時、王侯貴族から、職人などの庶民まで幅広い階層の人たちでした。
また、政治的にも宗教的にもさまざまな立場の人たちでした。
どの階層、立場の観客にも満足を与えるために、セリフの意味にわざとあいまいさを出したのです。

●愛する息子と、パトロン(庇護者)の死
シェイクスピアの試練は、その後に起こります。
1596年のことです。彼は幻想的で、美意識の強い「真夏の夜の夢」を書き上げます。
貴族の結婚式の祝宴用に書いた作品です。
シェイクスピアが所属していた「侍従長一座」のパトロンであるヘンズドン卿がこの年に死んで、シェイクスピアの劇団は経済的後ろ盾を失います。

シェイクスピアの息子ハムネットが11歳でその短かすぎる人生を終えたのもこの年です。
この事実がその後のシェイクスピアの、親として子の死を悼む気持ちに表現されるようになります。
「リア王」(1604-6)では、リアが末娘コーディーリアの死を悲しんで絶叫します。
 
●悲劇への傾注
こうしてシェイクスピアは、幼い子の死という深い悲しみを経験して、1599年くらいから、数々の悲劇を世に出します。
まずは、「ジュリアス・シーザー」で、暗殺されるシーザーの悲哀とともに、暗殺するブルータスの苦悩を描きます。

主人公が絶望し、もがき苦しみながら、救われることのない結末を迎えるというこの暗さは、「ハムレット」、「マクベス」、「オセロー」、「リア王」など、悲劇時代の主人公たちの心を表しています。
シェイクスピアはこうした悲劇の主人公たちの人間としての弱さ、醜さを深く描きます。

●「テンペスト(嵐)」の“ゆるし”にみる集大成
「テンペスト(嵐)」(1611-2)は、シェイクスピア最後のドラマです。
この作品のテーマは、“ゆるし”です。
弟に裏切られて島に流された主人公プロスペロ―は、最後にはすべてを許します。
この作品のプロスペロ―は、リア王と対比されて描かれています。
荒れ狂う荒野で大自然を呪い、叫ぶリアと、プロスペロ―が許しを与えることが対比されていて、「リア王」の作品では肯定することの出来なかった人間のずる賢さ、残忍さを許し、人生賛歌へと昇華していきます。

シェイクスピアは「テンペスト(嵐)」の上演を最後に引退しました。
すでに彼は財産にも社会的な地位も確立した後でした。

●人生は舞台である~シェイクスピアの人生賛歌
シェイクスピアは、「お気に召すまま」II幕7場で、“All the world’s a stage, And all the men and women merely players.”(「世界はすべて舞台。人は皆、男も女も役者にすぎない」)と言っています。

私たちは、人生という限られた期間に喜怒哀楽を自分なりの台詞で表現し、例外なくこの世を去っていきます。

シェイクスピアのレジリエンス

彼のレジリエンスは、以下のようになりました。

今回も以下の代表的なレジリエンス要素を用いて分析をします。
1.自己効力感
2.感情のコントロール
3.思い込みへの気づき
4.楽観
5.新しいことへのチャレンジ

自己効力感は相当に高かったと思われます。
学問の才能があり、グラマー・スクールでもラテン語をはじめさまざまな学問をおさめたことが彼の作品から伝わってきます。
また、その作風からは詩的なリズムや韻といった技法を編み出したことに加え、自由奔放であり、また、緻密に計算された笑いや感動を演出する手法に優れていました。

感情のコントロールは恐らくきちんと出来ていたことと推察されます。
彼の裁判への出廷記録などが残っているとのことで、法廷での証言では客観的な事実に基づく冷静な話しぶりだったと言われています。

思い込みへの気づきという面は、得意であったと思われます。
絶えず視点を変えて、主人公、敵役など正反対の立場から堂々と主張をさせるさまはみごとです。

楽観という視点は、彼の息子ハムネットが若くして死んでしまうまではかなり楽観的にものごとを考えていた様子がうかがえますが、その後は悲観的な脚本が多くなります。
彼の人生を表していたものと考えられます。

新しいことへのチャレンジという視点は、非常に得意だったと思われます。
演劇において絶えず新しい手法を見出し、実験的に使ってきたことが分かります。

レジリエンスのエッセイでありながら、長らく読者の方々をシェイクスピアにくくりつけて来てしまいました。
恐らく一番発見が多かったのは書いている私自身だったと思います。
次回からはまた、レジリエンスについてエッセイを書き続けたいと思います。
今後とも宜しくお願い申しあげます。

レジリエンスの高い人の特徴を詳しく知りたい方は、拙著:「レジリエンス(折れない心)の具体的な高め方 個人・チーム・組織」(セルバ出版)などをご覧いただければ幸いです。

また、シェイクスピアに関するビジネス活用のご参考として、拙著:「できるリーダーはなぜ「リア王」にハマるのか」(青春出版)があります。
この書籍はシェイクスピア作品を通してビジネスの現場にどう活かしていくかを検討するために書かれました。

toshiro@miyamacg.com (筆者:深山 敏郎)
株式会社ミヤマコンサルティンググループ
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