前回このコラムの103回目では、老子の言葉「小賢しさと欲望は自己を見失わせる」を取り上げました。
「道」はうつろだが
老子のいう「道」は、うつろで、「無」なのですが、それゆえにその働きは無限であるということです。
万物はその奥底から湧き出ると思えます。
それは限定せず、限定されず、対立というものをすべて超越します。
万物をつつみ込み、万物そのものです。
獏(ばく)としてあるかなきかの存在なのです。
このように「道」というものは捉えようがなく、また、無いようで存在するのです。
あたかも必要な時にだけ現れて、そうでないときにはまったく主張もせず、存在すら忘れ去られている真の賢人のようなものなのです。
とかく私たちは自分の存在を必要以上に主張し、他者との優劣に一喜一憂します。
そうした愚かさを、この「『道』はうつろだが」は教えてくれているようです。
「無為自然」と「道」の関係
「無為自然」という言葉も、老荘思想の基本的立場を表している言葉です。
とかく私たちが行ないがちな作為をよしとせず、宇宙のあるがままに従って自然に生きることです。
時代の流れに逆らわず、作為をせず、我を通すこともなく、自然に生きること、それができれば何と快適なことでしょうか。
現代に生きる私たち、特にビジネスにあてはめてみるとこうなるでしょうか。
組織を運営する側として、とかく自分なりの工夫をして自分が生きた証拠、あるいは爪痕を残そうとするのが、残念ながら私たちの常です。
そこには無理な力がかかり、ものごとはゆがみます。
人の心はひずみ、本来しなくともよい喧嘩が絶えません。
筆者自身も組織を率いる立場のときに、そうした過ちを何度も繰り返してきました。
人間関係でも、他者を恨み、嫉妬し、摩擦や喧嘩が絶えず、その結果、必ず苦しむ人がいたことに、その時点々々では少しも気づきませんでした。
その苦しむ人が自らの身内であれば、なおさらダメージは大きいことにも気づきませんでした。
その当時はビジネス上のいざこざが、家族をこれほど苦しめることになろうとは思いもしませんでした。
後悔先に立たず、です。
筆者の場合はそうした過ちを経て、やっと「無為自然」の価値が少しだけ理解でき、「道」というものの包摂性や大らかさ、温かさが分かったのです。
最近ではきっとそういう体験も、「無為自然」や「道」に至ろうという人間には必然の体験なのだろうと過去のことは考えるようにしています。
老子(老聃 ろうたん)が実在の人物だとすれば、きっと彼は中国春秋時代にさまざまな戦さやその結果としての悲惨な状況をいやというほど観てきたのではないかと考えます。
「老子」に関しては、徳間書店「中国の思想」第6巻「老子・列子」を参考にさせていただきました。
レジリエンスの高い人の特徴を詳しく知りたい方は、拙著:「レジリエンス(折れない心)の具体的な高め方 個人・チーム・組織」(セルバ出版)などをご覧いただければ幸いです。
(筆者:深山 敏郎)
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