第122回 この人に聞く!~人・組織が羽ばたく時~
2023/05/21
株式会社白亞 代表取締役社長 糸井謙司様(其の2)
今回の対談は、株式会社白亞 代表取締役社長 糸井謙司様にご協力頂きました。
株式会社白亞様は、1981年の創業から現在まで、お客さまの「お役に立ちたい」を合い言葉にハウスクリーニング事業、害虫駆除事業など、衛生に関わる事業を展開されております。
今回は株式会社白亞 代表取締役社長 糸井謙司様のキャリアと会社を引き継ぐまでのお話しを伺います。
金山:先週は、会社紹介と創業ストーリーについてお話しを伺いましたが、糸井様のキャリアについてお話しお伺いできますでしょうか。
そうですね。
父の仕事が軌道に乗ってきたころ、家族みんなで土浦に引っ越しをして住むことになったんです。
それまでは神戸で生まれて育ったので、馴染みのない土地での生活は正直大変でした。
両親は忙しく朝から晩まで家にいない状態でしたし、特に最初は言葉が通じませんでしたから、周りが何を言っているのかも分かりませんでした。
父は本当に頑張っていたんですけど、なかなか馴染めない中親と話す機会もなく、正直親の仕事を理解するほどの余裕がなかったですね。
次第に反発するようにもなりましたし、頭の中には早くこの家を出ていきたいということしかありませんでした。
後を継ごうなんていう考えは全く持っていませんでしたし、大学が決まって電車に乗って家を出る時に、もう二度と利根川を渡らないぞと思いながら行ったことを覚えています。
調子に乗った20代、はじめての起業と失敗
大学を卒業してからは、大学の頃やった企画とかイベントに興味を持って、そういう会社に引かれて就職したんですが、配属されたのは営業でした。
最初は大変だったんですが、人には恵まれまして、営業としての成績も良く評価されていました。
お陰様で所長までやらせて頂いて、自分の部署が表彰されることも多くありました。
ただ、調子が良すぎて調子に乗ったと言いますか、そういう性格なのかもしれません。
20代後半の頃は、会社の上の人たちはみんな馬鹿だなと思うこともありました。
こんな奴らだからこの会社はダメなんだと思うようになりましたし、30歳になった頃に直属の上司と反りが合わなくて喧嘩別れするような形で仕事を辞めてしまったんです。
辞める時にちょうど飲食店をやらないかという話がありまして、私自身料理が好きだったものですから、好きなことをしながら仕事できたらいいなと軽い気持ちで乗っかってしまったんです。
ただ、料理が好きっていうだけで成功してる人の話はあまり聞いたことないですよね。
実際にすぐ破綻しまして、借金を抱えるはめになったんです。
それが31の時ですね。
壊れた洗濯機と決断
飲食店で失敗したとき、ちょうど結婚したばかりで嫁さんのお腹に子供がいたんです。
借金も抱えていましたが、何とか頑張ろうってその時点では家に帰るという選択肢は全くありませんでした。
嫁さんには俺が何とかすると言っていましたし、そういうつもりでした。
するとある日、洗濯機が壊れたんです。
何とかすると言ってましたけど、中古で洗濯機を買うお金もなくてどうしようか困っていたんです。
洗濯は毎日必要ですし、コインランドリーに毎日行っていたらお金がかかるしと考え込んでいたんですが、家に帰ると狭いお風呂場でお腹を大きくしている嫁さんが洗濯板で洗濯をしていたんです。
うちの嫁さんは韓国の田舎の出身なものですから、小さい頃洗濯板を使っていたそうなんです。
「私これ使ったことあるし得意なんだよ」って笑いながら言うんです。
洗濯機も買えない僕に何の文句も言うことなくやってくれている姿を見たときに、これ以上こんな思いさせちゃだめだと思ったんです。
両親に頭下げたくないとか、親の元で働きたくないとか、そんなことにこだわってる場合じゃないと思って家に電話をして戻ることにしました。
戻りたくて戻ったとか、後を継ぐので戻ったというよりは、今の現状を何とかしないといけないと思って戻ったというのが実情です。
ただ、多少期待は持っていたのは事実です。
創業して10年で全国1位になったことも知ってましたし、ダスキンの中で基盤もないところでスタートして10年でそこまでなるなんて聞いたことないと周りから言われていたのも知っていました。
しかも火傷の後遺症というハンデを抱えながらすごく頑張ったんだと思います。
ダスキンからの表彰で家族を連れてハワイに行ったことも聞きました。
私は行きませんでしたが、羽振りが良いというのは聞いてましたし、入社するまではそういう認識を持っていました。
金山:なるほど。
“入社するまでは”というのが気になりますね。
実際に入社してからはどうだったんでしょうか。
入社後7,8年は現場の仕事をやっていたんです。
社長になろうと思って戻ったわけでもありませんでしたし、自分の生活の為、嫁さん子供のため、自分の借金もあったので頑張ろうと思って仕事をしていました。
ただ入社して分かったのですが、全国1位になったのをピークに業績は落ち続けていました。
後ほど知ったことですが、ある意味成功者として一目置かれる存在で全国あちらこちらの会合に呼ばれて飛び回っていたんです。
それ自体が悪いわけではないんですけど、そういった活動に熱心になるにつれて新規事業のお話しや本業以外の部分での投資が増え、借金も抱えることになったんです。
会社の業績は悪化して社内の雰囲気もどんどん悪くなっていきました。
給料も上がるどころかカットされるようになり、長年会社を支えてくれた中堅の社員たちも独立すると言って辞めていきましたね。
担当していたお客さんとか声かけてみんな持っていかれたりしましたし、社内では人の悪口ばかり、役員ですら社員の悪口を言っているような会社でした。
私に聞こえるように「バカ息子は使えない」というようなことをいう社員もいました。
バイト時代のお客さんを思い出す
そんな環境の中で担当していたのが害虫駆除だったんです。
やりたい仕事でもなかったですし、会社の業績も悪かったので給料がめちゃくちゃ安いんです。
東京でバイトしていた方がまだ実入りがあったわけです。
何のために戻ったんだろうと思う日々。
逃げたくなるような毎日でした。
ある日家に帰って嫁さんと子供の寝顔を見たときに凄い泣けてきて、自分自身凄く情けない気持ちになったんです。
ふと学生の頃アルバイトをしていた居酒屋さんに毎日くるお客さんを思い出しました。
毎日毎日来て同じカウンターの席に座って会社の愚痴をこぼしている。
僕はそんな姿を見てこんな大人になりたくないって思っていたんですけど、その姿が浮かんできて思ったんです。
同じような大人に自分がなってるって。
そして環境はすぐには変わらない。
そこに向き合う自分の心を変えていくか、あり方を変えるしかないと思いました。
それからは、社内外問わず必死に学びに行きました。
真剣に仕事に向き合っていくと、だんだん仕事が面白くなってくるんですよ。
ネズミと知恵比べをして罠を仕掛けたり、匂いでゴキブリの居場所が分かるようになったり、お客さんにもだんだん喜んで頂けるようになって仕事もどんどん増えていったんです。
金山:確かに周りの環境や人って変えられないですもんね。
自分自身を心、あり方を変えることで世界が変わった行ったんですね。
そうですね。
するとだんだん会社全体の課題も見えてきて、父がワンマン社長でしたから、会社が問題だらけだったんですよね。
それに対してどんどん改善提案をしていくようになったんです。
こうやって改善したらいいんじゃないか、こうしたらもっといいんじゃないか。
これまでも言っていた人たちはいたと思いますが、あまりロジカルに提案をしてきた人は役員の中にもいなかったんです。
私はずっと営業をやっていたので、数字を見せながらロジカルに提案型で話をしていったんです。
するといくらワンマン社長とはいえ、納得すると確かにそれはそうだなと、話を聞いてもらえるようになっていったんです。
そうなってくると、他の役員や社員も何か言いたいことがあると私を頼るようになったんです。
ちょうど社内でそういう立場になっていった時に、社長交代の話が上がったんです。
というのも父がペースメーカーを入れる手術のため、長期入院することになったんです。
大きな手術ではなかったのですが、心臓なんで万が一のことを考えるとこのタイミングで交代した方が良いのではと役員や他の人たちからも声が上がったんです。
そして、社内の「謙司やったらいいんじゃない」という声に押されて社長に就任することになったんです。
金山:なるほど。
そうして会社を引き継ぐことになったんですね。
お話しありがとうございます。
次週は糸井様が会社を引き継いだ後から現在までのお話し、そして糸井様が描く今後のビジョンについてお話し聞かせてください。
今週は糸井様のキャリアと会社を引き継ぐまでのお話しをお届けしました。
次週もお楽しみください。
会社情報
事業所名:株式会社白亞
所在地:茨城県土浦市中高津2-17-15
事業内容:
・各種ハウスクリーニング及びビルメンテナンス事業
・ペストコントロール事業
・殺菌・抗菌・消毒・環境浄化・環境美化事業
・メンテナンス機器・環境衛生食品の販売事業
・光触媒事業及び清掃・抗菌関連商品の販売事業