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深山 敏郎

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第172回 困ったときの老荘だのみ エピソード72

2024/10/01

毎回老子の言葉をひとつずつご紹介しています。
コラムの171回目では、「身にはボロを、ふところには玉を」を検討してきました。
老子は言います。
「私のいう原理は誰にでも理解できることだが、理解しようとする意志がないだけである」と。

今回は「迷妄」です。
老子は言います。
「知の限界を深く理解することが、真の知である」と。

「迷妄(めいもう)」とは何か

今回は老子の言葉「迷妄」の意味をご一緒に考えましょう。
老子は「知の限界を悟らないことは、迷妄である」と断言します。
「迷妄を迷妄であると理解できたときに、はじめて真の知に通ずる道が開ける」とも言います。

老子はこうも言います。
「聖人は、迷妄に陥ることはありえない。それは知の限界というものを深く自覚しているからだ」と。

これはどういうことを意味しているのでしょうか。
我々はものごとを知っていると思い込み、自分の知っていると思っていることを疑わないでいます。

ディープ・フェイクの世界では

私たち小人は、自らの興味の範囲を年々狭めているのではないでしょうか。
グローバル化の時代であるにもかかわらず、です。
こうした世の中で近年問題になっているのがインターネット上の偽情報です。
文字による場合もありますし、画像による場合もあります。
画像による偽情報は例えば、生成AI(Stable Diffusion)を用いた静岡県の台風デマ情報がSNSのTwitter上に流れたことが有名です。

私たちはとかく、これら自分が知った情報を真実であると思い込み、判断し、喜怒哀楽もします。
老子が言っていることをこれらの事象にあてはめてみると、自分の知っている、あるいは知っていると錯覚していることを絶対であるというのは思い込みである、ということなのでしょう。


本コラムが私たちの日々の悩みを和らげ、深く自省するきっかけになれば幸いです。

「老子」に関しては、徳間書店「中国の思想」第6巻 「老子・列子」を参考にさせていただきました。

レジリエンスの高い人の特徴を詳しく知りたい方は、拙著:「レジリエンス(折れない心)の具体的な高め方 個人・チーム・組織」(セルバ出版)などをご覧いただければ幸いです。

(筆者:深山 敏郎)
株式会社ミヤマコンサルティンググループ
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