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伊藤 洋

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第7回 過去は変えられる(前編)

2021/05/31

今日は僕が起業したきっかけというか、なぜ会社を起こしたかについてお話ししようと思います。

僕は宮城県仙台市でタクシーの運転手の父と、大学病院で事務をやっていた母のもとに長男として生まれました。
その当時のごく普通の家庭環境で育ちました。

これといった夢もなく、やりたいことというのもなくその時々をこなしながらずっと生きてきました。
地元の大学へ入学したのも両親がどうしても大学へ進学しろ!という要望だったので、好きでもない勉強をして大学へ進学しました。

そこでも何を得ようとか、夢を見つけようとかも思わず平坦な学生生活を過ごし、就職活動も「ここ!」という業界も企業もないまま何となく「広告の仕事ってかっこいいかも」というくらいの気持ちで就活をし、新卒では決まらず、卒業後に小さい広告代理店に就職しました。いわゆる第2新卒ってやつです。

その後も広告会社を2社ほど渡り歩き、仙台のファッション系の専門学校にスカウトされ学生募集・就職指導・教務の業務を任され20数年間学生とファッションと触れ合ってきました。

今から10年前、東日本大震災。

この時に思ったことは「服って、どんなチカラがあるんだろう?」でした。
音楽や食べ物にはすごいチカラがある!服のチカラって何?と。

それから、僕は自腹で仙台フォーラスというファションビルの一角を借りて被災地で立ち上がったブランドを集めてポップアップショップを始めました。

一学校としてではなく、東北のアパレルをPRしたかったので、所属する専門学校ではなく、新たに立ち上げた一般社団法人を主催としました。
就労規則には副業はダメとはなかったからです。
そんなポップアップショップを年に4回程度のペースで開催していました。

地元の地方新聞に取り上げられ、僕の活動が掲載されました。

ですが、それを知った専門学校の理事長から「謹慎処分」を受けました。
理由を聞いても答えてもらえず、このポップアップショップがダメだったのか?と聞くと「これは良い活動だ」との返答。
じゃ、何がよくなかったのか?を聞くと、「新聞に掲載されたことが良くない」。との返答。
僕は困惑しました。それが謹慎の理由?

それから1ヶ月半、完璧に無視され、放ったらかし状態が続きました。
給料も振り込まれず、電話やメールで、何度も何度も連絡しても全く出てもくれませんし、返信も全くありませんでした。

この間、毎晩包丁を手首にあてていました。
死のうと本気で思っていました。
そうすれば保険金で家族は何とか食べて行けます。

連絡が来たのは、代理の校長先生からでした。
「自分から辞職するんだったら退職金を払うと理事長は言っている」と。
この瞬間、「あ、もうここはダメだ」と思いました。

翌朝、退職願いを提出し、本当の無職になりました。